SIP第3期量子技術課題「教育プログラムの開発と実践」教育コースプログラム「量子技術入門コース」の第六講に参加してきました。
https://skillup-next.co.jp/sip_3period_01
今回は、前回に続いて量子通信をより実装に近い視点から扱う内容でした。以下では量子通信が長距離をどうやって越えるのか、その「中継」の仕組みについてご紹介します。
前回の記事では、量子通信がなぜ盗聴できないのかをご紹介しました。結論は「観測すると壊れる」、「コピーできない」の2つの物理法則に集約されました。
この2つの性質は、量子通信を使うメリットでありながら、同時に最大の技術的障壁でもあります。コピーできないということは、増幅できないということです。観測すると壊れるということは、途中で受け取って送り直すこともできないということです。
古典通信が太平洋を平然と越えられるのは、光ファイバの途中に光増幅器(EDFA)を数十kmおきに並べているからです。弱った信号を増幅して、また送る。この当たり前の手段が、量子通信では原理的に封じられています。
では、量子通信はどうやって都市を、大陸を越えるのでしょうか。
いま世界で実際に動いている量子暗号ネットワークは、ほぼこの方式です。
距離が半分の区間で、それぞれ独立に量子鍵配送 (QKD) を実行する。QKDは前回ご紹介した「盗聴されれば必ず痕跡が残る」あの鍵の配り方のことです。
Alice ── R ── Bob と並んでいるとします。Alice と Bob は、暗号の分野で送り手と受け手を指すのに昔から使われる名前で、R は中継局(relay)です。
この時点で、Alice と Bob は共通の鍵を持っていません。そこで R が、次の鍵を公開します。
\[ c = k_1 \oplus k_2\]
ここで \(\oplus\) はビットごとの排他的論理和(XOR)です。
Bob は受け取った \(c\) に、自分の持っている \(k_2\) を足し戻すだけです。
\[ c \oplus k_2 = k_1 \oplus k_2 \oplus k_2 = k_1\]
これで Alice と Bob が \(k_1\) を共有できました。\(c\) が公開されていても問題ありません。\(k_2\) は一様乱数なので、\(c = k_1 \oplus k_2\) は \(k_1\) に対する完璧なワンタイムパッド暗号になっており、盗聴者が \(c\) から得られる情報はゼロです。
ただし、中継局は鍵を知っています。
R は \(k_1\) と \(k_2\) の両方を持っているので、\(k_1\) を平文で知っています。Alice と Bob のあいだで流れる通信の中身は、中継局から丸見えです。
つまりこの方式では、安全性の根拠が「自然界の物理法則」から「中継局の信頼性」という運用上の仮定へと、静かにすり替わっています。前回、量子通信の凄みは「その安全性が計算量ではなく物理法則に立っている」ことだと書きました。トラステッドノード方式は、その凄みを部分的に手放しているわけです。
現在、この方式が主流なのは今日ある装置で動くからです。量子メモリのような未成熟な部品を必要とせず、既存の QKD 装置を並べて鍵をリレーするだけで実現できます。実際に動いているネットワークは、いずれもこの構成です。
| ネットワーク | 規模 | ノード数 | ノード間距離 |
|---|---|---|---|
| 北京–上海バックボーン [1] | 約2000 km の幹線(北京・済南・合肥・上海) | 32 | 34〜89 km |
| Tokyo QKD Network [2] | 都市圏のメッシュ網 | 4 | 1〜90 km |
| SECOQC(ウィーン)[3] | 市内リング約 63 km + 近郊都市への1本 | 6 | 6〜85 km |
余談ですが、衛星「墨子号」を使った北京–ウィーン間(約7600 km)の量子暗号ビデオ会議も、この方式でした[4]。衛星がトラステッドノードとして振る舞っていたのです。
では、中継局に鍵を知らせずに中継することはできないのか。
できます。そしてその仕組みは、いま見たXORのリレーとは思想がまるで違います。カギは もつれ交換(entanglement swapping) です。
主役は、2量子ビットのベル状態と呼ばれる4つの状態です(John Bell に由来する名前です)。
\[|\Phi^\pm\rangle = \tfrac{1}{\sqrt2}(|0_A 0_B\rangle \pm |1_A 1_B\rangle), \qquad |\Psi^\pm\rangle = \tfrac{1}{\sqrt2}(|0_A 1_B\rangle \pm |1_A 0_B\rangle)\]
なぜこれが「もつれている」と言えるのか。 もつれていない状態、つまり独立な2つの量子ビットが並んでいるだけの状態は、必ず積の形に書けます。
\[\big(a|0\rangle_A + b|1\rangle_A\big) \otimes \big(c|0\rangle_B + d|1\rangle_B\big) = ac\,|0_A 0_B\rangle + ad\,|0_A 1_B\rangle + bc\,|1_A 0_B\rangle + bd\,|1_A 1_B\rangle\]
これが \(|\Phi^+\rangle\) になるには、\(ac = bd = \tfrac{1}{\sqrt2}\) でありながら \(ad = bc = 0\) でなければなりません。ところが \(ad = 0\) なら \(a\) か \(d\) のどちらかが 0 で、そのとき \(ac\) か \(bd\) も 0 になってしまい矛盾しています。
つまり \(|\Phi^+\rangle\) は、どうやっても「Aの状態」×「Bの状態」に分解できません。片方だけを取り出して「この光子はこういう状態だ」と書き下すことができない。2つで1つの状態としか言えない——これがもつれの定義です。
測るとどうなるか。 \(|\Phi^+\rangle\) を Alice と Bob が分け持って、それぞれ手元を測ってみます。
個々の結果は完全にランダムなのに、2人の結果は完全に一致する。ここから鍵が作れます。乱数を「送り届ける」のではなく、離れた2人の手元に同時に湧かせるわけです。
準備ができたので、本題に入ります。いま、こういう状況を考えます。
重要なのは、この時点で \(A\) と \(B\) のあいだには何の関係もないということです。
全体の状態を書き下します。
\[|\Phi^+\rangle_{AC} \otimes |\Phi^+\rangle_{C’B} = \tfrac{1}{2}\big(|0_A 0_C\rangle+|1_A 1_C\rangle\big)\big(|0_{C’} 0_B\rangle+|1_{C’} 1_B\rangle\big)\]
展開して、中継局が持っている \(C, C’\) を前に括り出すように並べ替えます。
\[= \tfrac{1}{2}\big(|00\rangle_{CC’}|00\rangle_{AB} + |01\rangle_{CC’}|01\rangle_{AB} + |10\rangle_{CC’}|10\rangle_{AB} + |11\rangle_{CC’}|11\rangle_{AB}\big)\]
さて、中継局は手元の2つ(\(C\) と \(C’\))を、ベル基底で測定します。そこで \(CC’\) の部分をベル状態で書き直してみます。\(|00\rangle = \tfrac{1}{\sqrt2}(|\Phi^+\rangle+|\Phi^-\rangle)\) などを代入して整理すると、驚くほどきれいに揃います。
\[= \tfrac{1}{2}\big(|\Phi^+\rangle_{CC’}|\Phi^+\rangle_{AB} + |\Phi^-\rangle_{CC’}|\Phi^-\rangle_{AB} + |\Psi^+\rangle_{CC’}|\Psi^+\rangle_{AB} + |\Psi^-\rangle_{CC’}|\Psi^-\rangle_{AB}\big)\]
読み方はこうです。中継局が測定して \(|\Phi^+\rangle\) が出たなら、Alice と Bob は \(|\Phi^+\rangle\) にもつれている。\(|\Psi^-\rangle\) が出たなら、Alice と Bob は \(|\Psi^-\rangle\)にもつれています。4通りがそれぞれ確率 1/4 で起き、どの場合も対応するベル状態が \(A\)–\(B\) に現れます。
中継局はこの結果を公開します。中身は「4通りのどれだったか」——つまりたった2ビットの古典情報です。Alice か Bob がそれを聞いて、自分の手元にローカルな操作をひとつかければ、\(|\Phi^+\rangle\) に揃います。
| 中継局の測定結果 | \(A\)–\(B\) の状態 | Alice/Bob の操作 |
|---|---|---|
| \(\Phi^+\) | 2人のビットが一致 | なし |
| \(\Phi^-\) | 一致・位相が反転 | \(Z\) |
| \(\Psi^+\) | 2人のビットが不一致 | \(X\) |
| \(\Psi^-\) | 不一致・位相が反転 | \(ZX\) |
\(\Phi\) と \(\Psi\) の違いがビットの一致/不一致、右肩の \(\pm\) が位相の符号です。この2つの区別、あわせて2ビットが、中継局の流す情報のすべてです。
ここで起きたことを、もう一度確認してください。
さきほどのトラステッドノード方式では、中継局が鍵を平文で握っていました。もつれ交換では、その弱点が構造的に消えています。中継局が敵に乗っ取られていても、鍵は漏れません。これが量子中継器の本質的な価値です。
代償もあります。もつれペアの生成は、光子が途中で消えるせいで確率的に失敗します。すると、先に成功した区間のもつれを保存して待つ必要が出てきます。これが量子メモリです。距離が延びるほど長く待つことになり、大陸をまたぐ規模ならミリ秒から秒のあいだ、量子状態を保ったまま保持しなければなりません。トラステッドノードが今日すでに動いているのに対して量子中継器がまだ研究段階なのは、この部品が未成熟だからです。
| 方式 | 信じなければならないもの | いま使えるか |
|---|---|---|
| 中継なし QKD | 装置のみ | ○(短距離のみ) |
| トラステッドノード | 中継局すべて | ○(実運用中) |
| 量子中継器 | なし(エンドツーエンド) | ×(研究段階) |
量子通信の「原理的に安全」は、区間の話でした。ネットワークとして繋いだ瞬間、安全性は物理法則の問題から、工学と運用の問題へと姿を変えます。いま世界で動いている量子暗号網が、どこかに「信じるしかないノード」を抱えているのはそのためです。
だから量子中継器が本当に目指しているのは、単に距離を伸ばすことではありません。中継局から「信頼」という言葉を消すことです。もつれ交換の式が示していたのは、まさにそれでした。中継局は2ビットを叫ぶだけで、鍵の中身には触れない。
「コピーできない」という性質は、量子通信に破られない安全性を与えると同時に、距離を伸ばせないという弊害をもたらしました。その弊害を、コピーせずに——もつれを繋ぐという別の道で——乗り越えようとしているのが、いまの量子通信です。その先にあるのが、量子インターネットと呼ばれる世界なのだと思います。
[1] 北京–上海バックボーン
Y.-A. Chen et al., “An integrated space-to-ground quantum communication network over 4,600 kilometres,” Nature 589, 214–219 (2021).
https://www.nature.com/articles/s41586-020-03093-8
[2] Tokyo QKD Network
M. Sasaki et al., “Field test of quantum key distribution in the Tokyo QKD Network,” Optics Express 19, 10387–10409 (2011).
https://opg.optica.org/oe/fulltext.cfm?uri=oe-19-11-10387
[3] SECOQC(ウィーン)
M. Peev et al., “The SECOQC quantum key distribution network in Vienna,” New Journal of Physics 11, 075001 (2009).
https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1367-2630/11/7/075001
[4] 墨子号による北京–ウィーン間の量子暗号ビデオ会議
S.-K. Liao et al., “Satellite-Relayed Intercontinental Quantum Network,” Phys. Rev. Lett. 120, 030501 (2018).
https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevLett.120.030501