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天然物化学研究室では、微生物や植物が作り出す ”天然有機化合物” をベースにした研究を行っている。特に有機合成化学を基盤に、生合成経路を合理的に改変・拡張して、骨格レベルの構造多様性を系統的に創出し、多官能性分子群を構築するプロセスを開発している。また、抗感染症・制ガン活性を発現するリード化合物群の開発や、共有結合性リガンドを活用したケミカルバイオロジー研究にも取り組んでいる。
さらに、天然物骨格が潜在的に持つ分子認識能力を引き出し、超分子化学と融合した新しい研究領域を拓いており、一連の研究と教育を通じて、化学分野を牽引する次世代リーダーの育成を目指している。

導入の背景
化合物を合成した後の分析データは電子ファイルだけでなく、出力された紙媒体の管理も必須となっており、それらが散らばってしまうことが一番の課題であった。個人が印刷して持っていたり、データとしてパソコンに入っていたりと管理がバラバラで、論文に起こす際に ”データ同士の関連性” を確認するために多大な労力がかかっていた。特に、日常的に行う薄層クロマトグラフィー (以下、TLC) の結果は何十枚にも及ぶことがあり、それを紙の実験ノートに手書きで記録する作業は、多大な手間がかかる上に正確性の面でも課題を抱えていた。TLC は反応の一次情報とも言える重要なデータであり、正確な記録にはスマートフォンでの写真撮影が手軽である。しかし紙の実験ノートでは、実験と写真を対応させるのは、毎回印刷しない限りは至難の技であった。また、手書きのノートでは、記録方法に個人差が生じやすく、文字が判読できないケースも存在した。実験内容と結果を深く議論するため、ノートや写真を基に、各学生が月に一度発表する研究報告会を実施している。スライドにデータをまとめてもらうスタイルとしているが、紙の実験ノート、NMR スペクトル、TLC の写真などの散在したデータを整理する必要があり、その作業にも膨大な時間を要していた。
導入ポイント
東京農工大学在籍時に個人版の Signals Notebook を使用していた経緯もあり、研究室での利用を開始した。「有機化学の研究者は ChemDraw に慣れているため、ChemDraw とシームレスに繋がり、直観的で分かりやすいアプリケーションであることは利用開始のポイントでした。電子ノート導入に踏み切る際、ChemDraw ユーザーであれば、Signals Notebook を選ばない理由はないと思います。」と言う。利用開始当初は、学生の好みに応じて紙の実験ノートと電子実験ノートのどちらでも選択できるようにしていたが、折しも 2020 年、COVID-19 流行によるオンライン対応や DX 化推進も求められた。大学への通学にも制限が掛かり、どこからでも一次情報にアクセスでき、セキュリティが担保され、迅速かつ体系的に情報共有が可能なシステムが必要となった。また、保管スペースの観点でも紙のノートの問題は大きかった。中には博士課程修了までに 10 冊以上のノートを書く学生もおり、異動や研究室再編の度に保管や引き継ぎの問題が顕在化した。スペースの問題を解決でき、高いアクセシビリティを保ちながら、編集履歴が残るため透明性が担保される点も導入の後押しとなった。
利用の状況
紙ノートからの移行は、研究 DX 化の流れも重なり 1 年弱で自然と切り替えることができ、現在はスタッフと学生合わせて約 30 名で利用をしている。また出張先など、どこからでもアクセスして実験ノートを確認できることは、紙ノートにはないメリットとなっている。他にも、実験ノートの標準的なテンプレート、修了生も含めた全員のノートを閲覧限定の状態で共有しており、実験と記録の要点をスムーズに共有できている。一方で、高い利便性は大学の本質である教育の効果を下げるリスクもある。Signals Notebook では ChemDraw から分子量が算出されて自動的にテーブルへ反映され、当量を記入するのみで試薬の使用量が自動計算される。そのため天然物化学研究室では、教育の観点から研究室配属時の学生に最初のノート 1 冊が終わるまでは、あえて ”紙ノート” を使用してもらっている。化学構造式を自らの手で描き、自身で当量計算を行って頭に入れていく。この基本的な訓練を経てから、電子実験ノートシステムに移行するというステップを踏んでいる。分子を描きながら反応機構を理解し、等量計算をすることがいかなる分野でも化学研究の土台になるとの考えからである。Signals Notebook 移行後の学生は、ノートパソコンを実験室に持ち込んだり、スマートフォンを活用して TLC の写真をその場でアップロードしたり、分析データである NMR は生データを対応する実験に添付したりと、効率的にデータを集約して一次情報は全て Signals Notebook にアップする運用としている。「一方で、必要以上のマイクロマネジメントと感じさせないような配慮は必要です。」と語る。実際の細かな利用・運用方法は各人に任せているが、一次情報は必ず Signals Notebook にアップすることさえ押さえておけば、過去の実験データや先輩のノウハウが紙の束に埋もれることなく、在籍メンバー全員がアクセスできる資産として活用することができる。

効果と成果
Signals Notebook で研究情報の一元管理ができるようになり、研究報告会や論文の準備にかける時間を約 50 % 削減できた。「以前は、研究報告会の資料作成のために丸 1~2 日かかる学生もちらほら見かけましたが、今は Signals Notebook から必要なデータをコピーして持ってくるだけで済むため、半日程度で作業が終わります。」と話す。これは準備時間の短縮だけではなく、転記ミスの削減にもつながり、一次情報との食い違いも防止できる。また並行して行う実験では、ノートをコピーして必要な部分だけを改訂するのみで実験計画を立てられるため、実験に入るまでのスピードも速くなっている。「データが一元管理され、タイムスタンプもしっかり残るため、 ”このデータは本当に正しいのか” という疑心暗鬼から解放されました。昨今、研究データのインテグリティがより一層重要視されていますが、Signals Notebook を使っていること自体が、不正に対する抑止力にもなり、ラボ全体の信頼性向上につながっています。」
今後の展望
今後は、Signals Notebook に蓄積されたデータを、データベースのように利用していきたいと考えている。現在、天然物化学研究室では、共同研究などで合成した化合物の生物試験や生理活性試験を、別大学の研究室に依頼することがある。その際、依頼化合物リストは個別に手作業で用意・更新しているが、今後は Signals Notebook から化学構造式情報を含んだ依頼化合物リストを生成したり、得られた試験結果を管理していくことを検討している。
Signals Notebook を、研究の効率化、教育、そして研究コンプライアンスを守るための基盤として活用し、より高度なデータインテグリティを目指していく。
本事例作成に関し、谷藤 涼 助教のご協力に感謝申し上げます。
(インタビュー:2025 年 11 月)
※所属・役職は取材当時のものです。